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競馬予想は社会的な地位を得られるのか?

この記事では、競馬予想が単なる「ギャンブル」という枠を超えて、社会的な地位を得られるのかについて、個人的な考察を試みます。

先日、競馬予想家協会への報告書提出2回目を行い、これで約1年間、競馬予想家協会の活動に参加させていただきました。

その中で、競馬予想家協会会長であるスカイポット氏とそのご友人のワックスムーン氏、またスカイポット氏が縁の深い競馬ナンデの編集長・おくりばんと氏、各氏の論考、すなわち競馬予想家とは何か、また競馬予想家とはどうあるべきか、さらには競馬予想家が社会的地位を得るためにはどうするべきか、といった議論を読むに至り、これについて私なりの考えを持ちました。

ここにその論考のページリンクを勝手に貼らせていただきます(問題があればご指摘ください。すぐに対応いたします。)。

競馬ナンデブログ・グリーンベルトの当該記事
スカイポット氏のブログ当該記事

上記リンク先記事では、競馬予想家とは何か、どうあるべきかということにまで言及されていますが、結局の所、これらは根底では競馬予想家が社会的な地位を得るためにどうするべきかということに通じていると捉えました。

競馬予想が社会的な地位を得られれば、競馬予想家が大手を振ってより多くの人々に競馬の面白さを伝えられるでしょう。

しかし、競馬予想がギャンブル(=良くないもの:社会的地位が低い)であるという世間の認識が変わらない限り、競馬予想家が幾ら頑張ったとしても限界があるように想像します。

そこで、この記事では、私は論点を競馬予想が社会的な地位を得られるのか、また競馬予想が社会的地位を得るためにどうするべきかという点に絞り、考えを示したいと思います。

さて、早速ですが、社会的な地位を得られるのかどうかについては、個人的には次の4点がポイントになると考えています。

1)「競馬」の社会的地位に関する性質
2)「競馬予想」の社会的地位に関する性質
3)「競馬予想」によって得られる金銭と税金
4)「競馬予想」の競技化

で、下記文章が長いので、要約して結論を先に書いておきますと、私の主張は
【「競馬予想」が社会的地位を得るためには、胴元主催のルールとは別に、「競馬予想」の競技化を図る必要がある】
というものです。

誤解の無いように予め言っておきますと、胴元主催のルールを否定するものではありません(共存は可能。というか双方向でやったら相乗効果が産まれるんじゃないかと思ったり。そして何より私は馬券が好きですので。)。

それでは順を追って書いていきます。

なお、いつものように改行しているとページ縦幅が大分長くなってしまうので、以下では改行を必要最低限に抑えてあります。



1)「競馬」の性質
まず、競馬と他の社会的地位を得られていると思われるスポーツやゲームを比べて、本稿の趣旨に沿って、その性質を明らかにしておきたいと思います。
基本的には、私は競馬はスポーツの延長線上にあるものであると考えています。オリンピックには馬術競技がありますし、英国では紳士の嗜みとして競馬そのものに社会的な地位があります。日本でも、騎手は社会的な地位を得ているように見えます。これは、同じ公営競技の競輪や競艇、オートレースなどでも、知名度には差がありこそすれ、競技者は少なくとも「選手」「アスリート」として認められており、その社会的な立ち位置は球技などのメジャーなスポーツ競技のそれと変わらないと思われます。
違いがあるとすれば、ギャンブルが付随するというイメージが影響する差であり、人気の差であり、競技人口の差でしょうが、これについては日本の「競馬」はタレントをCMに起用するなどイメージ戦略も含め十分な社会的地位のレベルに達していると思われますので、「競馬予想」についてもそれに準じており、社会的地位を得られる土壌はあると考えています。
「競馬」は既に社会的な地位を得ているのであり、さらに「競馬」だけを切り取って考えると、スポーツあるいは競技と呼んでも差し支えないものであるとここでは規定しておきたいと思います。
そして、上記のように、競技であることが社会的な地位を得るために重要な点の一つではないかとも考えられることをここで指摘しておきたいと思います。
さらに言えば、競馬が競技であるのは、複数頭の馬がレースにおいて1着を目指して(つまり対戦、競争である)、そのために日々鍛錬を積んでいるという構造(騎手もほぼ同様の方向性で鍛錬を積んでいるという構造)が背景にあることも指摘しておきます。
一方、世界的に競技人口の多いスポーツというと、バスケットボール、サッカー、クリケット、テニスなどがあり、それらでは当然プロがいますし、ゲーム(知的なテーブルゲームなど)で言うと、我が国の将棋、囲碁、チェス、麻雀、ポーカー、最近ではビデオゲームでもプロ(主にFPSや対戦格闘アクション)がいるなど、広い意味での「競技」で社会的な地位を得ているものは多岐に渡ります。
他にも様々競技はあるでしょうが、上記した各競技のどれもが、チーム戦にしろ個人戦にしろ、対戦相手を設定しており、やはり対戦・競争で特定のルールに則った技を競うものであることが共通項であると考えます(つまり競技)。
そして、競技で1位を取ることには大きな価値が与えられており、勝者は尊ばれ、賞賛を浴びます。なぜなら、競技者は鍛錬を積んだ異能者であり、抜きんでた技術を持った存在であるが故に、“観客が見るだけで”感動したり、感銘を受けたり、心躍らされるからです。それを体験するために観客はわざわざ見る為にお金を払う訳です。きっと、こういった見る行為を「無駄」と感じる層もいるはずで、そういった人々の言動については「競技を見ても心が躍らないから」という至極単純な理由で説明できるのだろうなと見ています。
勝者あるいは優秀者に賞金が出ることで、いわゆる「プロ」、競技のプロフェッショナルが生まれます。この点は「競馬」も同様であり、「競馬」は立派にプロフェッショナルが確立していて、今更説明するまでもなく、牧場、厩舎、騎手といった「競馬」の「プロ」が存在します。
やはり、「競馬」自体は既に社会的な地位を得ているというのは間違いないことだと考えられます。
この結論を前提に、次の2)の議論に進みたいと思います。



2)「競馬予想」の性質
競馬そのものは競技としても良い要素が十分あることは上述してきた通りだと思うのですが、競馬にはそこにギャンブルでもあるという要素が加わっています。私は競馬がギャンブルであるというのは、競馬(やあるいは麻雀、ポーカーなど)の本質ではないと考えています。競馬をギャンブルという興行にしているのは、あくまで興行主の方であり、ギャンブルが競馬である必要は無いからです。
つまり、本質的には競馬と馬券ギャンブル(という遊び方)は別物であると考えられます。競馬には馬と騎手という“競技の”プレイヤーがいますが、馬券を買う競馬ファンは“競馬の(競技の)”プレイヤーではなく“馬券というギャンブルの”プレイヤーです。
馬券を買う人々は、馬に乗って実際に競馬をするわけではありませんので、純粋な意味でのプレイヤーではないのです。言い換えると、馬券購入者は、競技者ではないのです。これが例えパリミチュエル方式で参加者同士で賭け金を奪い合っているのだということを自覚したとしても、依然として馬券ギャンブルは競技ではありません。なぜなら、単純に第三者から戦いの様が目に見えないからであり、その時点で対戦ではないのであり、したがって競技になることはありません(オッズを見ながらあの予想家とあの予想家との戦いだなと感じる人がいるでしょうか。感じたとしてもそれは正しい認識ではないことは明白です。)。
1位を決めるルール体系がスポーツやゲームなのだとしたら、ギャンブルとは何でしょうか。私はギャンブルとは「興行主(胴元)が参加者にお金を出させる遊びの仕組み」だと考えています。乱暴な言い方をすると、胴元が儲かるための仕組みです。
麻雀やポーカーでは、参加者の合意の元、参加者だけでお金を出し合ってお金を奪い合う場合もありますので、上記の定義には当てはまりませんが、雀荘やカジノなどの胴元が場所や空間を提供している場合には、場所代など手数料を払うため、競馬とほとんど同様です。逆に、競馬でもやろうと思えば、友達とどの馬が勝つのか私的な予想対決をして、賭け事をすることができるでしょう。
そのように、競技そのものとギャンブルが本質的には別物であるというのは、1)で挙げた全てのスポーツやゲームでもギャンブルができるということでも説明できます。サッカーにはサッカーくじがありますし、将棋の著名なタイトル戦でどちらの棋士が勝つのか賭けているオジサンたちは全国に沢山いるでしょう。やはり競技とギャンブルは別です。
では、ギャンブルという遊び方を付与されやすい麻雀やポーカーと、「競馬予想」ではどのような違いがあるでしょうか。
麻雀やポーカーは、ゲームの勝ち負けに関与するのはもちろんプレイヤーであり、ギャンブルに参加しているのも勝ち負けに直接関与しているプレイヤーであり、基本的に競技のプレイヤーとギャンブルのプレイヤーが同一であるという特徴があります。
一方、麻雀やポーカーでは大会が開かれますが、「競馬予想」では公にそのようなことが開かれることはありません。これは、やはり「競馬予想」が競技ではないからだと考えています。「競馬予想」では、競馬の勝ち負けに関与しているわけではない人たちがギャンブルのプレイヤーなので、「競馬予想」が競技になり得ない構造だからです。競馬という競技にはダービーという頂上決戦がありますが、「競馬予想」にはダービーのような頂上決戦がありません。なぜなら、「競馬予想」は競技ではないからです。
このように、麻雀やポーカーでは競技性があるために大会が開かれるなどして、勝者が選ばれ、社会的地位を高められる機会がありますが、「競馬予想」は競技性に乏しいため、社会的地位を高める機会が全くと言っていいほどありません。
繰り返しになりますが、これは「競馬予想」が競技ではないからであり、胴元が用意したギャンブルというビジネスの仕方そのものだからです。
この文脈に置かれている限りは、「競馬予想」のプレイヤーたちはギャンブラーであるという世間的な捉えられ方にとどまり、(競馬文化が社会的な地位を着実に増していったとしても)ギャンブルが社会的な地位を得ない限り、「競馬予想」が社会的地位を得ることは叶わないでしょう。
ではどのようにすれば、「競馬予想」が社会的地位を得ることができるのか。
現在の状況を打ち破って、「競馬予想」が社会的地位を得るためには、胴元の用意したルール、あるいはその文脈における従来の評価基準から距離を置き、競技性を持たせた新たなルールの元で「競馬予想」をする必要があると考えます。
従来のルール・評価基準とは、これまでの競馬文化が胴元の用意したルールおよび価値観の元で培ってきた評価基準、すなわち的中を志向する文化(成績的には的中率として表される)、高い回収率を志向する文化(同じく回収率)、獲得金額を誇る文化(穴馬券、大金ベット)、メインレースで当てることを尊ぶ文化(メディアへの露出度や注目度を尊ぶ)、などが考えられます。
単純化して言うと、馬券を当てること、そしてそれによって配当金を得ることに関する評価基準です。当然ながら、胴元は馬券を買って欲しいので、馬券が当たるとこんなに楽しいよということを流布する必要があります。したがって、このような文化を醸成してきたと思われます。
しかし、それはそれとして、個人的には以上の従来のルール・評価基準から距離を置いて、全く新しい評価基準でかつ競技性を持たせなければ、「競馬予想」が社会的地位を得ることはできないと考えています。
それでは、全く新しい評価基準には、どのようなものが考えられるのか、次の金銭との絡みも含めて考察したいと思います。



3)「競馬予想」によって得られる金銭と税金
細かい議論は置いておくとして、現状、予想が的中して得られた金銭について、適正な納税の仕組みが敷かれているとは到底思えません。適正な納税の仕組みを早く整備してほしいと思う一方で、馬券のシステム上、合理的な納税の仕組みを敷くことが難しいというのも恐らくあるのだろうと考えていますが、この辺りは法律に明るくないので本当のところは分かりません。
しかし、少なくとも今のところ、「競馬予想」の社会的地位が、馬券的中で得られる金銭によって担保あるいは補強されることはあり得ないと言えます。
馬券によって大金を得た人は、同じ「競馬予想」のプレイヤーたちからは崇められるかもしれませんが、社会からは眉唾物として見られたり、あるいは脱税の疑いをかけられたり、そもそも社会的に認められる金銭の獲得とは見做されないのが残念ながら実態と思えます。
これが競技者であれば、獲得した賞金はまさに栄誉の証にも代わるものであり、騎手には最高獲得賞金のタイトルがあり、納税者番付に乗れば社会的に羨まれ、・・・などし、これは様々な競技で同様です。本来、どれだけ大金を得られたのかというのは、資本主義社会においてはステータスそのものであり、まさに社会的地位を得られるはずなのです。
ところが、こと「競馬予想」に関して言えば、現況はそうではないのは上記した通りとなります(ぶっちゃけ、馬券に関する税制がクリアになれば、競馬予想が投資などと社会的な地位で肩を並べる可能性は出てくると思いますので、そうなればこれ以降の議論は然程意味を持たなくなるので楽なのですが)。
この「競馬予想」によって得られる金銭と税金についての現状も踏まえると、やはり従来のルール・評価基準では、「競馬予想」の社会的地位は得られないということになります。
したがって、またしてもそこからの脱却を志向することになります。
そして、その一方向性として、次のように主張したいと思います。単純に馬券的中によって得られる金銭が「競馬予想」の社会的地位に還元されないのだとすれば、馬券的中によって胴元から得られる配当金ではなく、「競馬予想」競技に胴元ではない別のスポンサーからもたらされる賞金があれば良いのだ、とここでは強く主張しておきたいと思います。
つまり、従来のルール・評価基準からの脱却と、「競馬予想」の社会的地位を得るための新たな評価基準の創造に関して、胴元との金銭的なやり取りから距離を置いた別の賞金制度を用意することこそが、最も肝要な点だと考えています。
ここまで議論してきたように、資本主義社会で賞金とはまさにステータスそのものとなり得るのであり、競技では賞金を競うことでプロフェッショナルが生まれます。「競馬予想」にギャンブルの胴元からではなく、競技性を認めた他のスポンサーから賞金が出ることによって、それが競技となり、社会的地位に繋がると考えます。
では、「競馬予想」の競技とはどのような形が考えられるのか、次項で示したいと思います。



4)「競馬予想」の競技化
身も蓋もない話からすれば、今あるような、的中馬券を予想するものでは無くさなければならないと考えています。馬券種には単勝、複勝、馬連・・・とありますが、このルールを取っ払って、別のルールを設けなければなりません。誤解を恐れず物凄く簡潔に表現すると、当たる馬券、儲かる馬券を予想するルールではなく、レース及びレース内容を予想するルールです。
例えば、将棋に代表されるように、知的なゲームでは、その論理性が明示的に了解できるのであり、見ている人たちが唸るような、芸術的な論理性によって人々は魅了されると考えられます。そしてその魅力に人はお金を出すのであり、ファン・観客やスポンサーに繋がります。それがプロフェッショナルの誕生に繋がり、社会的地位に繋がるのだという考え方は、これまで議論してきた通りです。したがって、新しいルールは、「競馬予想」の論理性が見て取れるようなものにする必要があります。
「競馬予想」に論理性をなどと当然のようにサラッと書きましたが、これが難しいのは競馬ファンなら分かるはずです。しかし、「競馬予想」そのものに誰が見ても分かる明示的な論理性が付帯していなければ、広く人に親しまれることはなく、スポンサーからの高額な賞金や多くのファンを獲得することはできないでしょう。とはいえ、繰り返しになりますが、「競馬予想」に明示的な論理性を持ち込むことは、甚だ難しいことだと思います。
もし、そのような論理性を「競馬予想」に持ち込むことができたとしたら、その予想はそもそも胴元の行う馬券ギャンブルでも勝てるものでしょう。故に、「競馬予想」競技に参加する競技者は、先ず以て馬券で勝てる人々になるであろうと思われます。ここで競技者の自然淘汰的な選抜、他の競技で言うところのアマとプロ的な境目が出来てくるのではないかと思います。
しかし、ここで忘れてはならないのは、馬券ギャンブルで勝てるからといって、明示的な論理性を提示できる能力があるのかというと、恐らくそうではありません。どのように論理性を示すのかというルールが鍵になりますが、一つの有力候補には文章で示すというものがあり、これまでの「競馬予想」の歴史的にも相性が良さそうです。もしそうなると、文章力も問われるということになり、馬券ギャンブルで勝てるのとは異なった才能を要求される可能性が高いです。
個人的には、文章力によって「競馬予想」競技が左右されるのは、そもそも巷の“面白予想”の類を売りにしている人々と本質的には変わらない地平になってしまうと考えています(私個人は面白予想は好きです。ただ、それでは社会的地位は得られないと思う、ということです。)。そこで、競技のルールの中に、明示しなければならない文章項目を予め設定しておき、ある程度書く文章を限定するというのが良いのではないかと思っています。
明示しなければならない文章を限定するのは、将棋で言えば、各駒の動きが定まっているのと同じで、ゲームは限定することで制限(ルール)を生み出し、その制限の中でどのように論理性を発揮するのかを問うことで、論理の普遍性と人々を感動させる工夫が生まれるということだと捉えられます。
「競馬予想」に翻ってこの文章の限定を考えると、これは予想ファクターを文章化することに等しいと考えています。ここでもう一つ重要な点というか、クリアしなければならない問題が出てくるのですが、「競馬予想」のファクターそのものが論理性を欠いている(場合がある)ということが、非常に問題です。あるファクターそのものが確かなものであると広く認知されない限り、文章項目設定の根拠が揺らいでしまうからです。人によってはあるファクターを軽視し、別の人は同じファクターを重視する、というのが今は多すぎるので、ある程度ファクターが解明・研究され、普遍的なファクターが確立されないと、それに対しての論理性の発揮、そして論理性の競技につながるという流れが難しくなると考えています。
したがって、そもそも「競馬予想」の競技化を図ることを考えた時に、現在は「競馬予想」の研究不足、突き詰めきれていない点が実はかなりの大きな障害だと言えます。少なくとも競技として確立する際に、その競技認定をする団体等がはっきりと突き詰めたファクターを用いて文章項目を設定しなければなりません。恐らくですが、今の「競馬予想」文化は、このファクターを突き詰めているレベルにあり、今のレベルを超えて種々のファクターが確かなファクターであると確立されていかないと、「競馬予想」の競技化はまだまだ先であるということになると感じています。
ひとまずここではファクターが確立された未来を想定して、話を進めます。実際に行う競技がどのようなイメージなのか私なりに記してみたいと思います。
まず、確かな根拠に基づいたファクターに関する文章項目を設定し、これに競技者各々(人数も限定した方が良いでしょうね。リーグ戦A、リーグ戦Bなど。)が見解を述べることで、競技がスタートします。競技の結果、予想の優劣は、レースの結果がその見解にどれだけ近いかで判別されるというのが個人的な一案であります。この辺りの案はそれこそポーカーに様々なルールがあるように、色々バージョンがあっても良いかと思います。例えば、各馬の入着順位の整合性を問うものでもいいし、ペースの整合性を問うものでもいいと思います(着順予想ルール、ペース予想ルールなど)。
これらのバージョンの違いは、予想のしやすさ、論理が整合する確率の難易度などを考慮して、幅広い層にも楽しめるように、比較的簡単なルールから難しいルールまで取り揃えると良いと考えています。例えば、ペース予想の派生として、どの馬がテンの3Fでトップに立つかを論理的に当てるというルールや、それを難しくして3F通過時点での各馬の順位をどこまで正確に論理的に予想できるかというルールや3F通過タイムを予想するルールといった、レース全体では大変難しいのである区間で区切った予想ルールがあっても良いのではと思います。
つまり、競馬予想を競技化するというのは、馬券ギャンブルではなく、競馬という競技の内容を如何に論理的に予想するのかというゲームにすることなので、スタートからゴールまでの事象のある限定された区間であっても予想競技の対象とすることができると考えます。将棋で言うところの詰将棋といったイメージでしょうか。もちろん、大会ではレース全体を対象とするべきでしょうけれども。
そして、見解についての判別は、審査者が総合的に下すのでも良いし、整合性にポイント付与で客観的・自動的に為されるのでも良いし、拍手システムのように観衆が評価するものでも良いと思います。この辺りも様々バージョンがあっても面白いと思いますが、大会などでは当然一定のジャッジが客観的かつ公平に下るように統一すべきでしょう。
このように、いずれか所定のルールにしたがって、最終的に競技者の順位が決まるということになります。これが私の考える「競馬予想」の競技化です。そして、私の考える「競馬予想」が社会的地位を得るための方向性です。



【結論】
ここまで述べてきたように、「競馬予想」が社会的地位を得るためには、胴元主催のルールとは別に、「競馬予想」の競技化を図る必要があると考えています。それができれば、「競馬予想」が社会的地位を得ることは可能だと考えます。
このような競技性を持たせるためには、まずは4)でも述べたように予想ファクターの研究と普遍化が必要であり、例えば有名な概念であるスピード指数といった優秀な指標をもっと突き詰めていく必要があると思います。その上で「競馬予想」に明々白々な論理性を付帯させなければなりません。
もしそのような進化ができたとして、「競馬予想」が競技化したら、ギャンブルの枠を超え、社会的な地位を得られると思います。そして、その「競馬予想」を行う競馬予想家も社会的な地位を得ることができるはずです。
今後、個人的に可能な活動としては、そのように予想ファクターを突き詰めていくということと、競馬予想家協会における予想報告・公開のように客観的かつ不正の無い競馬予想を追求すること、であると考えています。
それではこの記事を終わりにしたいと思います。長々お付き合いいただきありがとうございました。

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